出雲に祀られる国造りの神、大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名で、神代よりその幸魂が大和三輪山に祀られております。 「人造り」・「国造り」・「医薬」・「夫婦和合」の神として信仰されています。また、大黒様として福の神の信仰を受けています。
天変地災、生老病死など人間の萬の苦しみの象徴であるとともに、それらを祓い除ける神として信仰されており、八岐大 蛇を退治する神話でも有名な神様です。 御神徳は「病気平癒」・「厄除」・「除災招福」等
日吉大社御鎮座の神、比叡山に鎮まる神として神代より信仰され、五穀豊穣や樹木の成長を司り、暮らしを豊かにする神
として拝まれてきました。京都に都が置かれてからは、「鬼門守護」の神となり、「方除け」・「魔除け」の守護神として信仰されるようになりました。
光仁天皇の御世、宝亀二年(西暦七七一年)、尾張地方に疫病が流行したので、人々が素盞鳴命を大己貴命と合わせて祀
り、病災除去の氏神としたのが発祥です。その後、大同二年(西暦八○七年)、平安時代の官人、橘逸勢(たちばなのはやなり)が社殿を建立、また、伝教大師による天台宗の布教とともに神仏習合の説が広まり、山王宮と称されるようになりました。
一方、傀儡の人々には、当社が日本で唯一の本来の山王宮であり、「古山王」という舞が当社で舞われていたという伝承があります。
十三世紀末には当神社の興隆著しく、社殿を修築し、祠官を定め社領が奉納されたと伝えられています。尾張の国府が清洲に移されてからは、清洲総氏神として信仰を集め、四千坪以上の境内地に荘厳な社殿を構えていました。
天正八年(西暦一五八○年)、清洲城代織田信張公は、近江坂本の日吉大社より大山咋神と摂社二十一社を勧請し、現在まで伝えています。
また、尾張徳川吉通公は当神社の御分霊を稲荷社とともに、現在の名古屋市古渡町に山王稲荷として奉斎し、その御分霊は現在、当神社の境内末社として祀られています。
明治以降、社名を山王宮から日吉神社と改め、旧社格制度のもとでは、県社として尊崇されました。
当神社は天下を取った三英傑に御縁のある逸話が伝えられており、戦国時代の武将織田信長公は、当神社の神前にて火起請(ひきしょう)という裁判に立ち合われたと伝えています。
尾張で生まれたといわれる豊臣秀吉公は、清須市朝日の出身である生母(大政所)が日吉神社に祈願し授けれれた神の子であり、それゆえ幼名を日吉丸といい、身のこなしが当神社の神の使いである猿に似ていたと伝えられています。
そして、秀吉公の妻ねね(北の政所)は、その母とともに日吉神社を深く崇敬し三十六歌仙の歌仙額を寄進し、さらに、神
社の垣牆(えんしょう)、神宮寺の薬師堂を造営寄進しています。
天下人となった秀吉公が病を患ったおり、後陽成天皇は勅使を日吉神社に派遣し病気平癒を願われたと記録されています。
江戸幕府を開いた徳川家康公は、小牧長久手の合戦のおり、織田信雄公の軍勢とともに清洲に野営しました。その際、軍兵が当神社を焼き払ったので、当時の祀官が申し出たところ、軍兵の乱暴狼藉を禁止する制札を両将より賜りました。
戦いの後、信雄公は神社の本殿、末社を造営されました。その後、家康公の四男松平忠吉公が清洲城主となり、日吉神社
を大々的に造営修復、社領を寄進し尊崇の誠を捧げられました。
また、忠吉公は弓術を好み射札を度々奉納されています。
神社の西側には当時の垣牆や弓場の跡が今も残っています。