境内の見所

享保十一年(一七二六年)当時の神主が農民に椿の枯れ木の根を売り渡し、これを掘ったところ
慶長時代の大判、切り金など六十枚、時価にして数億円の黄金が発見されました。
二枚を残して藩役所へ差し出したところ、当時のお金で数百両となり、神社の社殿すべてを
建て直すことができたといいます。この大判には「監物所持」と記されており、松平忠吉公の
重臣小笠原監物が埋蔵したものと推定されます。近年、当神社にはまだ埋蔵金の残りが隠されて
いるのではないかと尋ねて来られる方も増えています。

当神社の一角に古来より「子産石」と称される女陰石があり女性がこの石に触れると立ちどころに懐妊すると伝えられています。 清須市朝日出身の豊臣秀吉の生母(大政所)は、この子産石に触れ、祈願し秀吉を授かり、幼名を「日吉丸」と名付けたとされています。 今は子授かり・安産・夫婦和合の石として奉られています。 この石を触ってお子様を授かりましたとお礼に来ていただける方もいらっしゃいます。 また、女性だけではなくご主人が触っていかれてご懐妊された方など、数多くのエピソードがあります。
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お二人の幸福を祈り伝説のご神徳をあなたのもとへ。


清須市清洲の味噌醸造業宮崎商店の創業者宮崎勘七翁は自身の商業的成功を感謝し、明治初年、中島より庄内川左岸に架かる枇杷島橋の架け替え工事を行いました。 往来の人々はこれを感謝し通行の礼金が多額となったので明治15年、橋の袂に大灯籠を建立しました。 枇杷島橋が二橋から一橋に変えられる時に旧清洲町役場に移設し、その後、清洲役場の新庁舎移転に伴い当神社に寄贈されました。


杉屋佐助、柴山藤蔵の両名により奉納されました。

連理の椿

古来この地に「弘法大師お手植の椿」が在りましたが、既に現存しておらず現在は新たに植えられた椿が、年月の内に共に結び絡み合い、その様は神秘的であり「連理の椿」として縁結びなどの信仰を集めております。

大東亜戦争の際供出した青銅製の神馬を、昭和四十一年午年の人等を中心に、氏子等によって再建されました。

御神楽奉納の際、使用されます。


旧清洲町が、日露戦争を記念し明治39年、当神社の西北に戦役記念碑と出征記念碑を建立しました。 平成の大造営に伴い、これを現在地に移転しました。旅順爾霊山慰霊碑を模したものです。

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